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自己物語

パソコンの普及とともに、ネット上には夥しい数の個人的な日記が
日々更新され、あちこちで私的な出来事を他人の目に晒しているという、
こういう現象はどういうことなのだろうか....


と、ちょっとした疑問を感じている私も、
こうしてたまにダラダラと書いているのだけれども。
これは、自分に対する問いでもある。






情報交換や伝達ツールのパソコンとして、
機能的には時空の短縮化が図られ、
利便性があるという点では、個人的な日記などを介して、
他者との関係を保持しようとするのもわからなくはない。
ただ、それだけではなく社会的な大きな渦のような流れが
作用しているような気がしている。
その社会的背景がどういうものであるのかはよくわからない。



こうして、それぞれの人々が書く記事の内容はそれぞれであろうけれど、
物語るという行為は他者に向けられているものであり、
その他者との関係性を前提として語られるものなのだろうと思う。
(たとえばここでは匿名性の他者として)
その前提とした他者の存在があって、
ある観点から自分の過去の行為や体験なりを取捨選択して、
それらに意味づけ、ある秩序にしたがって言語化して組み立てている。

そのようにして物語られたものが、
「聞き手」となる他者に承認されることによって、
自分が経験した諸出来事の一貫したストーリーを確実なものとし、
現在の自分の「生」にある価値を付与し、方向性を見出しているのかもしれない。


たぶん、こうした物語的行為はネット上ではなくて、
日常的に身近な場所で行われていたのだと思うが、
生活が多様化し流動的で不透明な社会では、
自己肯定感が得られるような場が、日常空間では見つけにくいということなのか?
自己の社会的リアリティの神経症的な確認行為なのだろうか....


もうひとつネット上の関係性で感じられるのだが、
個々の関係性ではなくて、その場の「ノリ」的共同体への
帰属意識のようなものが見えてくる。
それはネット上に限られたものではなくて、
日常的に学校や職場でも、
集団で構成される場では見受けられる事象なのかもしれない。
それらの「ノリ」的共同体にはある一定の秩序が発生して、
その秩序からはみ出すものは、
そこにはいないものとして見なされるのだろう。





夕べのTV『Mステ』『僕らの音楽』に出演した鬼束ちひろさんを見て、
何故かふとこんなことをつらつらと思ってしまった。
きっと鬼束さんのような方にはかなり生きがたい社会ではないかと、
久しぶりに見た、彼女の歌う姿が痛々しくて胸がつまった。
鬼束さんの曲はほんのわずかしか知らないけれども、
気になる存在として復帰を心待ちにしていた人だ。
鬼束ちひろさんには、歌手としてずっとずっと歌い続けてほしい。




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2007.06.02 | | Comments(2) | Trackback(0) | 雑感

コメント

こんばんは、志凛さん。

鬼束ちひろさんが出演されたMステは僕も観ていました。
タモリさんとのやり取りが、何とも言えぬ空間を
生んでいるように感じました。

タモリさんの方がマジョリティーで、
鬼束さんはなかなか理解されないマイノリティーのような。
別に司会者が悪いとか、番組の構成が悪いとかそういうのじゃなくて、
鬼束さんご自身がそのように振舞わなければならなかった。
観ていてそんな感じがしました。

>個々の関係性ではなくて、その場の「ノリ」的共同体への
帰属意識のようなものが見えてくる。

突き詰めいていくと、こういった考えは稲葉さんの奥底にも
あるように思います。稲葉さんは自分の内面と実社会での自分とを
上手く切り離して生活しているように思います。
でもその歯車が狂うと一気に崩れ、マグマが噴出してしまう。
いや、もしかしたら作詞作曲活動そのものが、歯車を噛み合わせる
大切な作業なのかもしれません。
鬼束さんは実社会を不器用に生きているように感じられます。

何はともあれ、鬼束さんの復活は大変嬉しいです。

2007-06-07 木 02:47:01 | URL | Magnolia # [ 編集]

こんばんは、Magnoliaさん。
コメントありがとうございます。

私以上にファンだと思われるMagnoliaさんも、
やはり鬼束さんのMステ出演をご覧になられていたんですね。
Magnoliaさんのご感想の内容は理解できます。
しばらくの間、業界にも、世間にも距離をおいて生活されていたわけですから、
すんなりとTV画面に収まるということは難しいことだったのでしょうね。

私が彼女に抱くイメージや、
Magnoliaさんの歌詞考察を参考にして考え合わせてみても、
元来が、周囲に迎合することで安心を得ようとする方とは
対極に位置するような方だと思われます。
たぶん「ノリ」的共同体の輪の中で浮かれることを望まないでしょうし、
むしろそういった社会的事象に問題意識を持っておられるのではないでしょうか。

マジョリティーからは異質に見えるような、理解されないマイノリティー。
差異は差異として存在すること自体が尊重される社会であればいいのですが、
共感できぬ理解しがたいものは非難したり、無きものとして排除することで、
マジョリティーの安定がより確保されるといった行動様式の世間だと思います。
そんな中でのマイノリティーとしての「個」は、
社会の成員として生きていくことが困難になるのでしょうね。
そして、鬼束さんにとっては、
社会とコミットする手段としての歌手活動なのだと思います。

稲葉さんについても、Magnoliaさんが感じられていることと、
私も似たようなことを思っています。
いつか、歌うことは「自分」の表現方法であると語られていたと思いますが、
社会の中での自己表現であり、自己確認のひとつの方法なのでしょうね。
自分の「ウチ」と「ソト」のバランスが崩れると、
マグマを噴出しなければどうしようもなくなる。
今や、そのバランスを保てる要素として、
自分が築き上げてきたものや、
自分を取り巻く環境などがあると思うのですが、
それらに支えられていることで現在の稲葉さんが在るのだと思います。

もちろん、稲葉さんと鬼束さんとでは資質の違いはあるでしょうが、
鬼束さんには、まだ上手く機能してくれる歯車がなかなか見つからないのかも...
どうにかゆっくりと動き出した歯車が上手く噛み合って、
今後は順調に回り続けられることを願いたいものです。

2007-06-07 木 22:18:37 | URL | 志凛 # [ 編集]

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